投稿日 |
2015/1/6 |
投稿者 |
春川亭三七 さん |
年代 |
30代 |
性別 |
男性 |
職業/立場 |
サラリーマン |
パチスロレベル |
中級者 |
誰が為のお裁きか?
落語の演目に、政談といわれる演目がある。
「大岡裁き」と言えば耳馴染みな人も多いのではないだろうか?
江戸の世に「弱きを助け、強きを挫いた」世にいう大岡越前守のお白洲お裁きを感情の機微を盛り込み一つのお話に盛り込んだ講談だ。
一見すると弱者に厳しい裁決を下したように見えて、最終的には弱者がハッピーエンドを迎える。
勧善懲悪。大岡様万歳。ヨヨヨイヨイ。わっしょい大岡。大岡わっしょい。よっ!越前守!といった具合に庶民に愛され、今でも「政治家はかくあるべし」なんて言われていたりするお役人の鑑(かがみ)のような人のお話である。
では、現代に大岡様はいるのか?
いや、もっと突っ込んでみよう。
7号業界(パチンコ・パチスロ業界)に大岡様はいるのか?
昨年8月28日の警察庁とメーカーの会合から業界はてんやわんやになった。
9月16日以降の保通協の試験方法が変わる。
この一言により、これまで盲点とされていた出玉率の「下限」をみられることとなった。
押し順ナビ? 知らんがな! 無視じゃ無視!
とりあえず「ガゴッ!」って言わしとったらいいんちゃうんかい!?
3000枚自主規制はどないしたんや! あ〜ん!?
・・・と実際に言ったかどうかはわからないが、警察庁からしたら、メーカーに対して「いい加減にしなさいよ、あなたたち。」といったところだろう。
射幸心をあおり、ぱちんこ・パチスロへののめり込み対策なんか一切できていないじゃないか!?と。
君たちに認められているのは「お遊び」だ、「博打」じゃない、と改めて釘を刺してきた格好だ。
確かに現行のAT機の吸い込み方と吐き出し方は露骨だ。
パチスロに設定はいらないのじゃないか?と思わせるくらい、1だろうが吹くし6でも不感症か!?ってくらい無反応なこともあるだろう。
(設定発表が禁止されているご時世。6かどうかの確認のしようはないが…。)
しかし、露骨に「した」というよりは露骨に「ならざるを得なかった」のではないだろうか?
例えば、5号機のエポックメーキング的な機種となった「エウレカセブン」。
エウレカの誕生により「5号機の可能性」は大きく広がった。
5号機は「エウレカ以前エウレカ以降」と評してもいいくらい、エウレカ以降5号機は変遷初頭のゲーム性から大きく様変わりした。
そして、その進化によって4号機→5号機に変遷した業界の極寒期から徐々にエンドユーザーを取り戻した。
そこからさらに、各メーカーの開発陣が「より良いものを!より売れるものを!」ということを求めた結果、ゲーム性は「ボーナス+ART」から「擬似ボーナス+AT特化」になり、「左第一停止」を求め、ゲーム性は似たり寄ったりになった感は否めないが、出玉性能はとがってきた、いや、とがってしまった。
前述の「エウレカセブン」にしても、「エウレカセブン2」になって世界観は変わっていないが、そのゲーム性はやはり「擬似ボーナス+AT特化」だ。
AT中のゲーム数上乗せに出玉性能を依存した結果、「エウレカセブン」の時に評価された「ゲーム性」と「出玉性能」のバランス感覚を失った。
しかし、果たしてそのバランスを失ったのは開発をしたメーカーにのみ責任があるのだろうか?
そもそも「出玉性能」を求めたのは誰だろうか?
まず初めに「行政」から検証してみよう。
ここはない。
ここが出玉性能を求めたことは歴史を見ても一度もない。
常に「日電協」は怒られてきた。
回胴式遊技機が生まれ、規制が緩くメーカーが好き勝手やっていた時代はともかく、法整備がされてからそのゲーム性は常に警察庁から監視されている。
射幸性という眼鏡によって。
「射幸心を煽るな!」
この大義名分がある限りは、警察庁から「出玉性能」を求めることは今後も一生ないだろう。
それでは、パチスロを開発・販売しているメーカーが求めたのだろうか?
ここを紐解くこと自体、賛否両論生まれるだろうが、「主体的にメーカーが求めたのではない」と仮定したい。
そもそも、草創期から比べれば、回胴式遊技機はハード面で言えば大きく進化している。
最初はそもそもMAX BETボタンもなかった。
クレジットを貯留するには、ボタンを押さなければならなかった。
STOPボタンを押しても勘合が悪く止まりにくいものもあった。
そして何より、液晶すらなかった。
それが規制の中から可能なものを作ろうと切磋琢磨し進化を続け、今や液晶がついているのは当たり前の時代になり、きらびやかな照明役物が付き、液晶周りには可動式役物が付いた。
音は、何台も並んでいるにもかかわらずウーハー付きの高性能のスピーカーが付いた。
リールは、いまやロックもするし逆回転もする。
所謂ハード面の進化だ。
出玉で魅せるというわかりやすい集客方法をとれないから、出玉につながるまでのアクションでその機種の特徴を求めた。
その結果、出玉と役物のアクションに非バランスが生まれた。
非バランスが生まれた結果、すべての演出の派手さが出玉につながらなくなってしまった。
出玉をつかさどるメイン基板からは「はずれ」の信号が出ているにもかかわらず、演出をつかさどるサブ基板からは「あおれ」「あおれ」と信号が送られてくる。
液晶演出は頻度の低い演出が出ている。
照明はいつにも増して派手だ。
可動式役物は今にも動き出そうと胎動している。
これは大丈夫だろう。
これだけ派手なら当たるのだろう。
なんならいっぱい出るのだろうと期待をして遊技を続ける。
しかし、結果は「はずれ」だ。
すると、打っている人間はどうだろうか?
あれだけ期待させておいてはずれかよと。
派手になっていく演出に慣れていき、どんなに派手でも退屈し、当たらないことに憤る。
メーカーは、派手になる演出群に比例して出玉を出さなければ客は打ってくれないのだろうと、現行許されるギリギリのラインを狙って申請を出してくる。
もしかしたら、試験の時には現行の上限を振り切るような出玉推移をしないかもしれないと。
しかし、すべてがそううまくはいかないから、保通協試験を受けた回胴式遊技機の合格結果が散々なことになっていった。
当たり前のことだが、メーカーは機械が売れなければやっていけない。
機械を売るには、市場の求めるもの、需要の高い機械を作らなければならない。
市場の求めるものを求めた結果、出玉性能をメイン基板以外のところに依存してしまった。
悪い言い方をすれば、規制の網の目を潜り抜ける方法を作った。
それ自体は違法でも脱法でもないが、度を過ぎれば目をつけられる。
結果、8.28談話である。
規制の盲点を突くやり方しか方策がなかったとはいえ、市場の求めるものを作る努力をした、売る努力をしたメーカーが「大岡裁き」でいうところの「強者」になるとはどうしても思えない。
例えば、今流行りのパンケーキ。
おいしいものを作ろうと有機栽培された原料のみを使い、トッピングのフルーツは契約農家から新鮮なものを取り寄せ、一日限定100皿にして、一皿1万円して売ったらそれは悪だろうか?
「おいしいものを作りたい。提供したい。」という「開発努力」ではないだろうか?
そもそも開発・販売しても売れなければ淘汰されていくのだから、それを良しとするかどうかは「エンドユーザー」だ。
パンケーキを食べたものだけだ。
では、こたびの試験方法の変更はエンドユーザーのせいなのだろうか?
遊技以上を求めたからなのだろうか?
エンドユーザーは、言ってしまえば消費者と一緒だ。
市場に出てきたものを、販売されたものを最終的に吟味し、購入し、そして評価する。
なににしたってそうだ。
スーパーに行きリンゴを買おうと思えば、よりおいしそうなリンゴを選ぶだろう。
電気屋で冷蔵庫を買おうと思えば、どのサイズで、どのメーカーのが良くて値段設定はどれくらいか、と選ぶだろう。
そして、ぱちんこを打とうと思えば、どの店に行き、どの機種を打つか選ぶだろう。
基本的にはすべて同じことをする。
しかし、リンゴや冷蔵庫と違い、ぱちんこ・パチスロの場合「返品」はきかない。
時間消化型のレジャーだからだ。
そう。レジャーなのだ。
千葉県にある某ネズミさんの施設だって、時間消化型のレジャーだ。
しかし、「どのアトラクションも楽しくなかったから入園料を返せ」という話は聞いたことがない。
もしかしたらあるのかもしれないが、そういった苦情がまっとうではないことはわかるだろう。
だが、ことぱちんこホールではあるのだ、そういう苦情が。
「5万も入れたのにウンともスンとも言わない。遠隔操作だろう。金返せ!」と。
こういう苦情には「責任」の所在がない。
ぱちんこホールにきてぱちんこを打とうと決めたのは自分だが、負けたのは自分のせいではない。
そのホールを選んだのは自分なのに。
その台を選んだのも自分なのに。
自分は悪くない。
では、ホールの責任か?
これも否である。
ぱちんこホールだって「お店」だ。
売り上げが仕入れを上回らなければ「利益」は生まれない。
「勝てる」台もあれば「勝てない台」もある。
その程度は様々だ。
しかも、調整をするのは人間かもしれないが、ぱちんこ台もパチスロ機も機械だ。
思い通りにいかないことはある。
予想以上に上に振れて(=店側の赤字)しまうこともあれば、あまりに抜けて(=お客の赤字)しまうこともあるだろう。
それでも「娯楽」としてぱちんこホールで遊ぶことを選ぶ人はいるのだ、時間消化の遊興として。
お酒が飲みたくて居酒屋に行く人がいる、キャバクラで女性と飲みたい人がいる、遊園地で遊びたい人がいるのと同じだ。
そういうフィールドでぱちんこホールは戦っている。
「時間消化」の遊興として選んでもらう努力をしているのだ。
それを「でねえ!」と憤るのは、あまりにも理不尽である。
勝ち負けをつけたくないのであれば、やらなければいいのである。
踊るあほうにも見るあほうにもならなければいいのである。
だが日本には、減ったとはいえ970万人もの踊る阿呆がいるのである。(もちろん、筆者もその一人だ)
様々な規制があり、都度「おいおい。大丈夫か?もう駄目じゃないか?この業界…。」なんて言いながら今日も今日とて行くのである。
ぱちんこホールに。
結局のところ「好き」なのだ。
「一時の遊興のためにする小博打」が好きなのだ。
「小博打」というと「違法だ!」と騒がれるかもしれないが、「一時の娯楽に供するものを賭けたにとどまる場合、この限りではない」のである。
その「一時の娯楽」は人によって違うものだ。
お金の絶対的価値は不変だが、人によって利用価値は違う。
「1万円」はどこまでいっても「1万円」だが、使う人によっては「高い」と感じる人もいるし「安い」と感じる人もいる。
1千万円を自由に使える人がぱちんこに10万円使うのは「一時の娯楽」ではないか?
5万しかない人が5万負けてすっからかんになったのは「一時の娯楽」とは言えないが、そういう人は時間消化のレジャーにぱちんこ・パチスロを選ぶべきではない。
ではそういう人を法律が守るべきだろうか?
警察庁が規制を与え射幸性を下げれば、行かなくなるのだろうか?
残念ながら、それでも行く人は行くのだろう。
ぱちんこホールがある限りは。
ぱちんこやパチスロをなくすのではなく、射幸性を下げるのではなく、そういう人を遠ざけることや依存症というものへの理解・対策を深めることが必要なのではないだろうか?
そのためにはもちろん法整備が必要なことではあるが、ぱちんこホールの存在そのものが一助になるのではないだろうか?
老若男女の社交場だったキングパルサーのシマ。
その昔、筆者がよく通っていたホールにはキングパルサー(山佐)が10台並んでいるシマがあった。
そこには老いも若いも男も女も様々な人が打っていた。
ドットのカエルのアクションに一喜一憂し、各々楽しんでいる。
ぱちんこホールからすれば「健全な」光景。
時におばちゃんから「ちょっと、お兄ちゃん。ボーナス確定しているんだけど。揃えてくれない?」と声をかけられ「はいは〜い」なんて軽口たたいて揃えてあげたり、「悪いけど、リプレイ外ししてくれない?」なんて言われたり、なんなら「400枚取れたら浮くからギリギリまで頑張ってちょうだい!」とか「ちょっと!お兄ちゃん!それ終わったらこっちの人のもそろえてあげて頂戴!」なんて乱暴な要求をされたりもした。
そして、一連の作業を終えると「ありがとうね」と言って缶コーヒーやたばこをもらったり、なんなら「もう浮いたからいいわ、この後打っていいわよ」と高設定確定の札が刺さっている台を譲り受けたりした。(当時は設定発表が可能であった)
万人がそうだとは言わないが、そういう触れ合いも含めて「楽しい」のがホールに行く醍醐味でもあった。
特に高齢者の方なんかは、そこにコミュニティを求め、昔でいう「井戸端」のような役割をホールがしていることが確かにあった。
そう。過去形で。あったのだ。
いまやホールはそうではない。
確かにホール店員は若い人が増え、昔に比べ感じもよく笑顔での接客が当たり前だ。
しかし、ホール店員による目押しのお手伝いも「指導」により「禁止」され、ホールによってはお客が代わりにボーナスをそろえてあげることを「代打ち」と言われ「禁止」してくるホールさえある。
考え方が古いと言われればそれまでだが、「古き良き」習慣は「合理的」という言葉に淘汰されてしまった。
淘汰されたこと自体は哀しいが、それ自体は悪ではない。
ホールにしても「致し方なし」の部分がある。
もし、「古き良き」を求めているホールがあるとすれば、そのホールはある意味では「被害者」だ。
しかし、「合理性」を理由にほくそ笑んでいるホールは確かにあるはずだ。
上述の行政の規制の中に「イベント禁止」というものがある。
いわゆる「○日のつく日は○○がアツい!」や「今日は○○の日」など特定の日にち・機種を特定するようなイベントが禁止された。
その結果、新台入れ替えの告知と有名人・著名ライターの来店以外のイベントができなくなった。
それによって集客できなくなった店はあった。(ちなみに上述した筆者が良く通っていたホールは今や閑古鳥がないている。)
資本力の乏しい中小規模の店舗が激減し、大型店舗が増えた。
大型店舗は毎週のように新台入れ替えをし著名人を呼び集客をする。
大型店舗に恥じない沢山の人がそこには集まる。
集まるし、台の稼働も上がるが、お客の満足度は少ないという声をよく耳にする。
集客し、そこで「抜く」のだ。
では、それ以外の日は?
それもまた「抜く」のだ。
結果、ぱちんこ・パチスロがつまらないという人が増える。
「出ない」からというのもさることながら、「楽しめる」瞬間が少ないのだ。
そういう状況が増えた結果が「遊技人口」の減少だ。
そして、ひとり頭から抜く金額が増えていく…。
「こんなに勝てないならもう打てない」とまたひとり、またひとりと遊技人口が減っていく…。
遊技人口減少の負のスパイラルに陥っていく…。
売り上げがなくとも新台を買わ「される」というホールがある。
メーカーが機種購入の履歴(機歴)をみられるから、将来出るキラーコンテンツのために買いたくない機種を買わされるというが、機歴をみられることは悪だろうか?
常連さんを優遇するのはどの業界も一緒ではないだろうか?
一見さんと常連さんでサービスが違うのは、常連さんは常連さんゆえに趣味嗜好がわかるからだ。
それを買わ「される」と評するならホールは買わなければいい。
新台入れ替えの割合を減らし、高設定の割合を増やし、顧客の満足度を上げて高稼働を維持しているホールは確かにある。
ただし、それは少数だ。
もはやエンドユーザーはトップ導入ということにこだわる時代ではなくなった。
情報流通が早くなったからだ。
むしろ、情報が浸透してからどういう風に扱うかをみるようになりだした気さえする。
大量に買わ「されて」大量の「設定1」を設置し、エンドユーザーから抜くことが正とするのが「ホール」なら、業界縮小の原因は「ホール」に大きく依存すると思う。
確かに行政の指導は厳しい。
未成年者が「お腹が痛いからトイレを貸してください」と言ってきても、「未成年者を店舗に入れることはできない」と追い返さなければいけないような業界だ。
設定は現在ブラックボックスだし、回転数のために釘をいじるのを「無承認変更」と罰される恐れさえある。
不透明で後ろめたい業界だ。
だからこそ、「子供放置反対!」や「ぱちんこ・パチスロは適度に楽しむ遊びです」というポスター喚起だけでなく、顧客に寄り添ったサービスを展開するべきだ。
あえて断言すれば、業界の未来の大半は「ホール」が握っている。
クソを食らって西へ飛ぶのはだれか?
序文で書いた「大岡裁き」の演目で「五貫裁き」というものがある。
興味のある方はWikipediaを参照していただきたいが、その演目の中であまりに吝嗇(ケチ)な質屋の徳力屋に対して「弱者の八五郎」の見届け人をした長屋の「大家」の「徳力屋」に対するセリフにこんな一文がある。
「金がそんなに惜しいか? 持って行け! あの世に持って行けるなら持って行け! 持っていけねえならどうする? 使うのか? ひとりで全部使うのか? ひとりで食う百膳の飯がうめぇか? ひとりで百枚の着物着てあったけぇか? ひとりで百畳の部屋にいて気持ちいいか? これでもわからねぇならクソを食らって西へ飛べ!!」
立場が人を変える。
立場が変われば人は変わる。
業界において誰が弱者かはわからない。
というか決めようがない。
ただし、上記の通りであれば、「クソを食らって西へ飛ぶ」のは誰であろう?
どの立場であろう?
それは、言わずもがなである。
了
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